うちの奥さんが買って、自宅の本棚にあったのを借りて読んだのがこの本との出会いでした。太極拳を始めた頃、太極とか、無とかを理解したくて手に取りました。
その当時の私は今に比べてもかなり頭が硬く、自分が概念化できないことを信じない傾向がありました。一通りこの本を読んでも「道」という概念がなんだかよくわからず、この本を読んで何をすれば良いのだろうか、何を学んだと思えば良いのだろうかと悩んだものです。
うちの奥さんは達観した人なので、さらっと「『道』は理解するものではなくて、感じるものなんだ」ってその当時言ってくれましたが、なんのことだかよくわかりませんでした。
多分、今回で5回目の読了になったと思います。その間に、老子に関する中国語の本も読みました。今回は、蜂谷邦夫氏の「老子(岩波書店)」と比べながら、一つ一つの章を順番に読んでいきました。蜂谷氏の本については別途ご紹介する予定です。
5回読んで、やっと少しは「道」を感じられるようになった気がします。でも、それを言葉で言い表してみるというのはまだまだ難しいです。もちろん私の理解不足が最たる理由ですが、そもそも老子の考えの根底には、言葉に対する不信があって、「道」は言葉では説明できない、と言う発想があります。そもそも名前すらない、でも、何もないと話が進まないから「道」と名付けただけです。
「道」はよくわからないけど、「無為」だったり、「無欲」だったりっていう「道」通じるコンセプトは、それに従って生きていく方が気分的に楽だと感じるようになりました。
元々私は欲の塊でした。常に何か新しいものを目指していないと気が済まない。目標を立てて、それを達成することに生きがいを感じていました。目標が達成されてしまうと、つまらなくなるので、また新しいものを探す。その繰り返しが、何度も転職をすることにもつながりました。
目標を持って前に進み続けること自体は悪いことではないと今でも思いますが、行き過ぎた「欲」は、競争を生んで、周りの人との協調を崩しかねません。営業職であったということも理由だとは思いますが、常に周りの人と競争をしてきました。本当に心から打ち解けられる同僚ってほとんどいなかったと思います。
太極拳も始めた頃も、誰よりも上手くなりたい、と思っていた時期が結構長く続きました。その思いが強ければ強いほど、周りの人たちに打ち解けられなくなり、孤立して、一人練習を繰り返すことになりました。仕事をやっていた頃と比べて全く成長していませんでした。
今でも、もう少し成長して、上手くなりたいという気持ちはありますが、それはあくまでも練習の結果だと思えるようになりました。自分より上手い人がいても、それが当たり前。自分が一番になる必要も感じなくなりました。別に万人に評価される必要もないですし。そういう気持ちになれた後は、太極拳の動きも柔らかくなったし、動きも落ち着きが出てきたと感じています。心と体は繋がっていますね。まさに心身一如です。
さて、この金谷氏の本ですが、初めて老子を読む人にはいいのではないかと思います。単に書き下し文と訳文が書かれているだけではなく、金谷氏がそれぞれの章の位置付けや評価を加えてくれているので、老子が言わんとしていることを掴みやすいです。とりあえずの理解を得るためにはいい本だと思います。もっとも、それは金谷氏の評価であって、鵜呑みにして信じるのはもちろん問題ですが。
ただ、先進的な試みをせれている感があるので、後々、老子の文章を引用する出典として利用するのはどうかと感じました。例えば、章立て。一般に用いられている章立てをいくつかの理由で変更する試みをしています。例えば、第23章(旧第22章)のような感じです。私が読んだ他の本では、このような試みはされていないようなので、老子の第○○章によると、っていう感じの引用をこの本ですると誤解を生みかねません。
解釈についても、いわゆる通説ではない説を紹介していることが散見されました。ただ、多くの場合、通説を紹介した上で自説を展開しているので、初学者が読んでも問題はないと思います。
最近、禅に関する本を何冊か読んだのですが、禅の考え方と老子の主張で重なって見えるところが結構あるなと感じています。インドから中国に入ってきた禅が、老子・道教の影響を受けて中国人に受け入れられやすいように変化した、ということが背景にあるようです。ただ、共通点が単に影響によるものなのか、それとも、あるべき真実であるから影響と関係なく同じ内容になったのかは、これからさらに学んでいきたいと思っています。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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