この間ご紹介した通り、金谷治氏の「老子」を読みました。解説をあらためて読んでいて自分の教室作りの理想と共鳴するところがあったのでご紹介したいと思います。私が目指している教室のイメージを膨らませていただければ幸いです。
老子の中には、「柔弱謙下」、簡単にいうと、無私となって、もの柔らかく弱々しく、人にへりくだって自然に生きる、という考えが随所に出てきます。老子の処世哲学と言っても良いと思います。例えば、有名な第8章、「上善は水の如し」。これは、水が低い方に流れて従順柔弱で争わないところに人生の模範をとることを説いています。また、水は万物の成長を助ける役割も果たしています。水がないとどんな生物も生きていくことはできません。
78章にも「天下水より柔弱なるは莫し。而も堅強を攻むる者、これに能く勝る莫し」という一節があります。水が固定した形を持たず、器に従って包炎自在に形を変えるその柔軟さを取りあげたものです。水が長い年月をかければ岩をもくだく、そういった強い存在でもありうるということです。
今の世の中、兎角、競争と進歩が重視されすぎるきらいがあります。他人に認めてほしい、他人を抑えて勝ちたい、という思いから、先頭を切って前へ前へと進む、俺が、私がという思いが前面に出てしまう、そんな傾向ってあるのではないかと思います。以前の私はまさにその典型でした。太極拳をやるようになってかなり変わったなと思う側面でもあります。
金谷氏の解説の中に、この「柔弱謙下」に関して、こんな一節がありました。ここが私が共鳴した部分です。
「万物の生長を助ける大きな役割を果たしながら、それは私がしたことだといって高みに上がるようなことをしない。低い方へと流れてさりげない様子でいる。ここが模範にしたいところである」
教室は、当然ですが、生徒さんが学んで成長することを助けることを役割の一つとします。生徒さんが教えたことをしっかり吸収して、成長してくれた、それを自分の手柄にするようなことがないようにしたいものです。誰かが有名になると「あの人は私の弟子だ」っていう人が出てくることってよくあると思います。
武術なので、誰かに挑戦されることもあり得ます。そんな時は、低い方へと流れてさりげない様子でいる、という態度を貫きたいです。武術とはいえ、力で勝つことが全てだとは思いません。腰抜けって呼ばれても別に構わないです。必要のない戦いは避ける、というよりも、基本的には戦わない姿勢を貫けたらと思っています。「柔弱謙下」を、武術としての理想としてしっかり胸に持って、いろいろな人と向き合っていきたいと思っています。
以前、師匠に武術を本格的に目指すのでなければ、看板に各文字を「呉式太極拳」ではなく、「拳」をとって、「呉式太極」とするのもいい、という話を聞きました。シンガポールでも、武術、という看板を出していると、挑戦をしてくる人がいるそうです。「拳」を外すことでそれをかなり回避できるそうです。武術としての側面を捨て去るつもりはないので、そこまではしませんが、なるほど、と感じました。
以前、うちの教室のロゴの説明をするために、ブログを書きました。易の中でも、「謙」が出てくる卦があって、それを用いています。
太極拳をやるにあたって読むべきとされる二冊の本、「老子」と「易経」。そのどちらにも私の目指す教室の姿が記されていました。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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