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執筆者の写真Mitch Sato

怒り

ちょっと気に触ることがあって、久しぶりに怒りました。昔に比べて随分気は長くなったのですが、まだまだ修行が足りない、と感じました。


気分を落ち着かせたいこともあって、「怒り」について色々と調べてみました。


最初に開いたのは、般若心経を説明した本です。「瞋恚」と言う単語が怒りの心として紹介されていました。自分の思い通りにならない状況に対する憎しみの心、と定義されています。怒りの心があると、身がカーッと熱くなり、心も興奮してやまなくなり、それが悪行につながるのだそうです。確かに怒っている時は、体は熱っぽくなるし、心は落ち着かなくなります。


ホームページも幾つか覗いてみました。自分の欲が妨げられた時、邪魔された感じる時に怒りの心が生じると言う記載がありました。


何か酷いことをされた場合には、腹を立てるのは当たり前、と考えても当然ではないか、と考える一方で、その当たり前と考えることの結果が、自分の理性や強要を吹き飛ばし、冷静な時には絶対やらないことをさせてしまうことがあるそうです。


怒っている時って、心が制御できなくなっていることが多いので、確かに余分なことまで行ってしまったり、やってしまったりしがちです。自分を正当化するために、過去の解決したことまで持ち出して、あれこれと怒っていることに理由づけをしたりもします。


「怒りは無謀をもって始まり、後悔を持って終わる」と言う数学者ピタゴラスの言葉があります。


色々と読んでいたら、気分もずいぶん楽になってきました。


どうも「怒り」の前提には、「こうなるはずだ」と言う自分の思いがあるように感じてきました。他の人に対して、自分の物差しで、こう言うことはしてくれるだろう、こんなことはしないだろう、と言う予測があって、それが裏切られると怒りが沸々と湧いてくるのではないかと思います。


改めて考えると、「こうなるはずだ」と言う自分の思いは、自分の主観でしかなく、それが万人から見て正しい、正当化されるべきものだと言う保証はどこにもありません。怒る直前の「こうなるはずだ」と思いは、我執や欲に塗れていることが多いのではないでしょうか。


「なんでこの人はわかってくれないのだろう」と言う思いの裏には、「わかってくれて当たり前」と言う思いが潜んでいます。自分の考えを否定されて怒る感情の裏には、自分は正しくて、否定されるはずはない、と言う思いがあると思います。


自分が抱く「当たり前」と言う思いと、怒りって実はかなり関係が深いように思えてきました。


危険から大切なものを守ろうとするために「怒る」、と言うのも面白い考えだと思いました。本当に大切なもの、例えば家族、が危険に晒されたので、怒るってこともあると思いますが、自分の「当たり前」を大切なものと感じてしまって怒るって言うのもあります。


こんなふうに考えていたら、怒る前に、怒った結果をちょっとでもいいから考えてみる、「当たり前」と思っていることが本当に当たり前なのか考えてみる、怒ることによって本当に守る価値があることなのか、といったプロセスを持てると必要以上に怒らなくて済むのかもしれません。


言うは易し、行うは難しです。脳の一部、前頭葉が怒りの感情から冷静さを取り戻すには、3から5秒かかるそうです。「大丈夫、なんとかなるさ」「怒るより話を聞いてみないとわからない」といった心が落ち着くような言葉を自分の心に言い聞かせて、冷静さを取り戻す時間を確保するのも良いようです。


こんな思考を繰り返していると、そのうちもう少し怒りをコントロールできる日が来るのかもしれません。


平静な心を常に維持しながら、太極拳を向上させるための一つのステップです、きっと。




 

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