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執筆者の写真Mitch Sato

隣の芝生は青い

隣の芝生は青く見えます。他の方々のTwitterやYoutubeを見ていると、いろいろなことができてすごいなぁ、って本当に思います。いろいろな種類の太極拳ができて、器具も使えて、套路も推手もできて、なんでもできる人がたくさんいます。


それに対して自分は、ある程度自信を持ってできると言えるのは套路ぐらいです。推手はできなくはありませんし、教えることもできますが、まだまだって感じがします。


先代の師匠からの伝統で、器具を使うことはうちの教室ではしてきませんでした。指が剣の代わりなんだ、それをしっかり使いこなせれば剣を使う必要はない、と言われてきました。


今の教室に通い始めて、一通り套路をできるようになった頃は、他のことができたらいいなぁ、って思っていた時期もありました。剣がきちんとできるとかっこいいなぁ、って憧れていました。


師匠から繰り返し套路の修正を受けて、練習を続けていくうちに、他のことに手を出す時間がなくなりました。一つのこともきちんとできないのに、他のことに手を出せるはずもない、と思うようになりました。実際、今は、套路の練習だけで毎日3時間近く使っているので、これ以上他のことは物理的にできないです。


自分が不器用なのだと諦めることにしました。世の中には、自分よりも器用に、いろいろなことをやってもそれぞれが影響を受けないでやり続けられる人がたくさんいます。残念ながら私はそのグループには入れません。


学生の頃、いろいろな言語を学びたくて、ドイツ語とスペイン語を同時に学んだことがあります。この二つ、同じ綴りでも発音がかなり違うことがあります。例えば、CHの発音。ドイツ語は「ッヒ」って感じ。スペイン語は「チェ」って感じ。ドイツ語を音読していた時、スペイン語の発音がところどころで混ざっていることを指摘されました。頭の切り替えができていませんでした。


私は呉式太極拳しか知りません。陳式もやってみたいと思うのですが、おそらく実際に手を出すことはないでしょう。


最近、太極拳は心を落ち着かせ、自己に執着しなくなるための手段に過ぎないのではないか、って思っています。決まった動きに体を動かせるようにすることを通じて、心を落ち着かせていく。心があれこれと体に命令しなくても、自然に体が動くようになる。心が体を動かすと言う作業から解放されて、より落ち着いた状態になっていく。


まだ、頭の中が整理しきれてはいないのですが、最近読んでいる湯浅泰雄さんの「身体論」という本に、心が主ではなく、体が主になることが修行の始まり、みたいな記述があります。


確かに立禅をやっている時も、体が落ち着かないと、呼吸も心も落ち着きません。


太極拳が手段だと思えるようになると、いろいろなことに手を出す欲がなくなってきました。今できること、やれることをさらに高めていって、その内容をきちんと教えられるようになれば、いろいろなことは教えられなくても、私の存在価値はあると信じて前に進みます。


でも、やっぱり隣の芝生は青いです。




 

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