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なんのための太極拳?

執筆者の写真: Mitch SatoMitch Sato

師匠のことを師父というのは日本語でもありますが、師匠に関わる人を「師」という文字を使って呼ぶことがあります。これは日本語で対応する言葉があるのか私にはわかりません。


師母: 師匠の奥様です

師兄: 自分より先に師匠に入門した男性の弟子

師姉: 自分より先に師匠に入門した女性の弟子

師弟: 自分より後に師匠に入門した男性の弟子

師妹: 自分より後に師匠に入門した女性の弟子

師叔: 先代の師匠に弟子入りした人。つまり師匠の師の兄弟弟子


自分にも、これらの単語に対応する人が全ています。うちの流派の歴史と流れを感じます。


昨日、学校が参加するイベントがあって、夜ご飯に出かけました。帰り道、「師叔」と一緒に地下鉄に乗って帰りながら色々と太極拳の話をしました。この方、年は私とそれほど変わらないのですが、呉式太極拳だけではなく、いろいろな流派を触ったことがあり、聞いたところによると太極拳の大会の審判も務められてきたそうです。


少しお酒も入っていたので、なんの拍子だったかは忘れましたが、太極拳で強くなることができるか、みたいな話をしてくれました。


太極拳で最強になれると考えるのは危険だと思う、健康を目指すぐらいにしておいたほうが良い、という内容でした。


太極拳の武術的な側面を否定してこんなことを言ったのではなく、今、この方が知っている太極拳従事者の太極拳に対する心構えと練習の内容からの発言でした。


昔は、太極拳を毎日のように武術として、強くなることを目標としてやっていた。今、本当にそう考えて練習している人はほとんどいない。套路中心の練習では武術として極めることはできないと感じられているそうです。


確かに、套路だけをやっていると、実際にその動きを応用することはなかなか難しいです。例えば、ボクサーがいきなり殴りかかってきたとすると、そのスピードには間違いなくついていけません。柔道家につかみかかられたら、次の瞬間、空を見ているか、悶絶しているかどちらかでしょう。そういう人たちと戦うことを想定して練習は、少なくとも私の周りにいる人の中にもいません。


「武術を本気で極める」、ということと、「誰よりも強くなる」、というのが同義なのか、今の私ではまだ判断がつきません。そもそも「強い」ってなんだろう、っていうところにすら答えが出せていません。私はまだ、武術としての太極拳の技を身につけて、それを何に使ったら良いのかが想定しきれていません。有事の際に対処できるようにするための準備ではないかと漠然と感じている程度です。今の教室でもどちらかというと不意打ちをくらった時にどう対処するか、っていうのが通常の教え方になっています。


人それぞれ、いろいろな考え方がありますが、うちの師匠の教えであり、私もそう信じていますが、まずは套路をしっかりやることが重要だと思っています。それができないとその先は何もない。武術として応用することもできないと考えています。


套路がある程度できるようになってきた今、自分がこの後進む道は、誰よりも強くなること、ではなくて、自分の得た知識を使って他の人が健康になるのを助けることだと考えています。足腰を鍛えることによって、身体的に健康になることはもちろんですが、身体が柔軟になって、心も柔軟になっていく、心も健康になることを目指せればと思っています。


なんにせよ、まずは目の前にあることをしっかり学ぶことが重要なのだと思います。それをどう使うことができるかは、しっかり学べてさえいれば、使うべき場面が来れば自ずと明らかになるのでしょう。目的、目標をはっきりとさせないまま前に進むのも悪くはないのではないかと感じています。



これからもいろいろな話題を紹介していきます。

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