前回のブログの説明から、「気」とは「世の中の万物を構成する基本的な最低単位として考えられる概念で、それ自体がエネルギーを有すると考えられている」としておいて良いと思います。こう捉えると、「気」は何か不思議なことを可能にするもの、という神秘主義的なイメージから離れることができます。
齋藤孝氏の「呼吸入門」に「気」についての記載があります。
「私は息の研究を長くしてきましたが、「気」のことについては、意識的にあまり語らないようにしてきました。この本の中でも、そのことに触れずにきました。「気」というのは感じるだけのものです」
「気というものは、あくまでも呼吸の結果として生じるものと考えれば、神秘主義の罠に陥らないで済みます。武道、芸道のあらゆる達人も、呼吸という具体的なものに要を置いているわけですから、奥深さはそこに求めていってほしいと思います」
アントニオ猪木さんのように「ダー」と拳を突き上げたり、アニマル浜口さんのように「気合いだー」と叫ぶ時、なんとなく身体に力がみなぎる感じがしませんか?こういった感じが「気」を感じるということなんだと思います。
「気」は誰の身体の中にもあるもの、そのエネルギーが滞りなく流れることができるかどうかは、身体をリラックスさせ、落ち着いた呼吸ができ、心が落ち着いた状態にあるかに依存します。太極拳はまさにこういった状態を作るために行うものです。
「気」を巡らす、「気」を発するというのは、それ自体を目的にしてしまうとダメなように感じます。理想的な心身の状態が出来上がった先にある結果だと考えるのが近道ではないでしょうか。まずは心と身体をリラックスさせることから始まりますが、では、リラックスするにはどうしたら良いか、これもまた大きな問題です。これに関してはまた別のブログを書くことにします。
東洋医学では、死体と生きている人間の違いを説明する際に、「気」が作用しているかしていないかを用います。つまり「気」が作用しているということは、生命を維持していること、「気」は生命力そのものということもできます。
太極拳をやっている人でも「気」を感じたことがない、という人がいます。おそらく「気」を何か特別なことができる、不思議な力だと捉えて、自分には不思議なことができたことがない、という思いからそう感じられるのでしょう。自分は生きている、と感じられれば、そのことが「気」を感じることと同義です。
かくいう私自身も、今回こうやってまとめてみるまで、「気」をどう説明して良いかずっとわからない状態で過ごしてきました。このように考えることが正解なのかどうかは知りませんが、少なくとも自分の中ではすっきりした気分です。
ためしに皆さんもアントニオ猪木氏に倣って「ダー!」とやってみませんか?突き上げた拳の先に力を感じませんか?それが「気」だと私は考えます。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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