遅々として進まないのですが、少し前から、夏目漱石を全部読んでみようと思って読んでいます。以前、演説をした内容をそのまま文章に起こして読むに耐えられるのは夏目漱石ぐらいだ、ということを聞いたことがあり、自分の日本語を見直すことができればと思って始めました。まだ一冊目の真ん中ぐらいというのが悲しいですが。
昨日読んだところに、最近老子を読みながらなんとなくわかったような、わからないようなモヤモヤしたことを解決してくれそうな箇所を見つけたので、忘れないように書き留めておこうと思います。

「そういう点になると西洋人より昔の日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的といって近頃だいぶはやるが、あれは大きなる欠点を持っているよ。第一積極的といったって際限がない話だ。いつまで積極的にやり通したって、満足という息とか完全という域に行けるものじゃない。向こうに檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払うとその向こうの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家がしゃくにさわる。どこまで行っても際限のない話さ」
「ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。にとガキに食わん、けんかをする、先方が閉口しない、法廷へ訴える、法廷で勝つ、それで楽尺したと思うのは間違いさ。心の落着は死ぬまであせったって片付くことがあるものか」
「西洋の文明は積極的、進取的かもしれないが、つまり不満足で一生を暮らす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一台仮定のもとに発達しているのだ」
「禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を巡らすことも、加茂川を逆に流すこともできない。ただできるものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修行をしたら落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか」
最近、別の本で、身体は自分が支配できるものではない、意識も支配できない、といった内容を読んだばかりです。自分の支配が及ぶ範囲が限られていると認識して初めて、自分の心を自由に働かせることができる、というようなことが書いてありました。「根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一台仮定」です。
漱石のいう、「心さえ自由にする修行」というのも簡単ではありませんが、自分が太極拳をやり続けている理由の一つです。
昔なら、この下はサラッと読み飛ばしてしまっていたかもしれません。今回は、ここで考え込んでしまい、付箋をつけました。
漱石がここで述べている西洋に対する見方は、今でこそ理解できる人も多くなったと思いますが、明治時代にこんなことをサラッとかけたのはやはりすごい人だと感じます。この先を読み進むのが楽しみになりました。というか、この感動を持って、もう一度「吾輩は猫である」も初めから読み直そうかと考え中です。
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これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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